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テレサ・テンは名曲ぞろい!アジアの歌姫の人生とは! [芸能]

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「アジアの歌姫」と言われ、

日本をはじめ、台湾、香港、東南アジアで

絶大な人気を博した歌手

テレサ・テン

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テレサ・テンの日本での活躍は言うまでもなくすごい。

レコード大賞新人賞の受賞や、

有線放送大賞も数回受賞しているし、

団塊の世代の人たちやそれより

少し上の世代の人たちにとってみれば

まさに「歌姫」という位置づけになってるでしょう。



当時、小学生か中学生くらいだった自分も

父親の車の中の音楽はテレサ・テンが多かったことで、

よくテレサ・テンの曲は聞いていました。

「つぐない」

「愛人」

「時の流れに身をまかせ」

「別れの予感」


この4つの曲は特によく覚えています。

当時小学生か中学生ですから、

歌の意味なんてわかってるわけでもなく

ただただ耳に残ってただけでしたが、

歌の雰囲気の良さはわかっていたんだと思います。

つぐない♪


愛人♪


時の流れに身をまかせ♪


別れの予感♪




 テレサ・テンのプロフィール


名前:テレサ・テン
中国名: デン・リージュン
生年月日: 1953年1月29日 
死没: 1995年5月8日(満42歳没) タイチェンマイにて

10歳の時、ラジオ局主催の歌唱コンテストで優勝。

14歳の時にプロ歌手としてデビューする。

16歳の時、主演映画で女優デビューを果たす。

その後、シンガポールやタイ、マレーシアでも人気に火が付き
18歳で香港でもレコードをリリースしアジアのトップスターとなる。



そのアジアのスターに目をつけたに日本人が、

のちのテレサ・テンの所属事務所の社長舟木稔である。

舟木は足しげく台湾や香港に通い、

テレサや両親を説得し、

1973年、当時勤めていた「日本ポリドール」(現ユニバーサルミュージック)との契約を実現させる。


 日本でデビューしてから晩年まで


1974年、21歳の時に日本での歌手活動を開始する。

最初はアイドル歌謡曲路線の「今夜かしら明日かしら」により

日本デビューを果たしますが不発に終わった。

そこで演歌歌謡曲路線に転向したところ、

日本でのデビュー2作目となる「空港」が大ヒット。

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第16回日本レコード大賞新人賞を獲得した。

順調に日本でも活躍を続けていたテレサだったが、

1979年にある事件がきっかけで日本に居れなくなる・・・

その年の2月、本来の台湾のパスポートではなく

インドネシアのパスポートで来日しようとしたため、

国外退去処分を受ける。

当時は日中国交正常化の影響で日本は台湾は国交を断絶していたため、

台湾のパスポートでは入国の際に非常に面倒だった。

そこで彼女はインドネシアのパスポートで「エリー・テン」という名前で入国していたのだ。

(当時の著名な台湾人は皆このような方法で来日してたらしい)

結果、テレサは、1年間の国外退去処分となり、

一時期アメリカに身を置いた。

事件から一年後の1980年に台湾への帰国を許された彼女は、

中華民国軍の広告塔として活動し台湾での歌手活動も再開した。

その後、再来日を果たすまで香港を活動の拠点にしていた。

1980年代初めには、中華人民共和国でもテレサ・テンは

人々の心をつかんみ大人気になった。



1983年に香港でデビュー15周年を記念したツアーを行い、

なんと10万人を動員し、

その影響力を嫌がった中国共産党政府が

テレサの歌を放送禁止にするほどの人気ぶりだった。



1984年、日本のファンの強い要望もあって、

ようやく再来日が許可される。

「つぐない」で日本再デビューし、

「つぐない」は150万枚の大ヒット。

その後にリリースした、

「愛人」も150万枚

「時の流れに身をまかせ」が200万枚のセールスを記録した。

1984年から1986年にかけては、まさ飛ぶ鳥を落とす勢い、

「日本有線大賞」および「全日本有線放送大賞」の

史上初の3年連続大賞・グランプリを受賞し、

まさにテレサ・テンの黄金期といってもいい時期でした。



しかし、ここあと彼女の人生が少しくるい始める・・・

1989年に、中国国内で起きていた

民主化要求デモを支援する目的で行われたコンサートに参加し、

約30万人の前で平和を願う歌をうたったが、

テレサの願いはかなわず、北京で天安門事件が起きてしまった。


天安門事件とは・・・

1989年6月4日に、同年4月の胡耀邦の死をきっかけとして、中国・北京市にある天安門広場に民主化を求めて集結していた学生を中心とした一般市民のデモ隊に対し、中国人民解放軍が市民に向けての無差別発砲や装甲車で轢き殺した、多数の死傷者を出した事件である。


そんなこともあり、1990年に予定されていた、

彼女の夢であった両親の生まれた中国本土での初のコンサートも中止になった


1989年、アジアを離れて単身、フランスのパリに移り住む。

1992年頃に持病の喘息を悪化させ、

次第に体調を崩していき、

1990年以降は表舞台からも距離を置き、日本を訪れることもまれになった。



そして、1995年5月8日、

タイ・チェンマイのホテルで気管支喘息による発作のため42歳の若さで死去。




1980年代後半、歌手として名声も財産も築いたテレサ・テンにとって、

「祖国」とも言うべき中国大陸への進出は人生最後の目標でもあった。

が、長年の夢だった中国でのコンサートは、

その天安門広場で群衆が戦車にひき殺され、

テレサ・テンが抗議に立ち上がったため、中国進出は叶わなかった。

歌手業からしだいに熱意を失っていたテレサ・テンは、

自分がスターであることも知らないカメラマンのフランス人と一緒に暮らし、

アルコールや睡眠薬におぼれ、最後はぜんそくの発作で死んでしまった。


天安門事件さえななければ、

中国本土進出が叶っていれば、

もしかしたら、テレサ・テンは、今でもお茶の間に歌を届けていたかもしれません。

人生の絶頂期での突然の死によって、

逆に彼女は人々の記憶の中にまさに伝説的な「歌姫」になったんだと思います。

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 ジャッキー・チェンとの恋


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テレサ・テンとジャッキー・チェンが交際していたのは有名な話。

1979年のパスポート事件で日本の舞台をいったん離れ、

アメリカに留学しますし、そこで、香港のスター、ジャッキー・チェンと知り合います。

共に異国で暮らす二人は自然に深い関係となりました。



しかし二人は結婚せず、

ジャッキーはその数年後の1983年に、

元女優だったジョアン・リンと極秘結婚しています。

 

ジャッキー・チェンはのちに、

「自分の周りの仲間がテレサのことを気に入らず、

 仲間がジョアン・リンと結婚することを望んだから」

とテレサ・テンと結婚しなかった理由後に語っています。


当時ハリウッド進出を目指していたジャッキーとテレサは、

自然に深い関係となったが、

ジャッキーの仲間たちが静かなテレサ・テンとの結婚を反対したそうで

仲間たちは明るい性格で自分たちと仲が良かった

ジョアン・リンをジャッキーの相手として進め、

結局はジャッキーもジョアンとの結婚を決心し、

1983年にジョアンと極秘結婚しました。

(できちゃった婚らしいですが・・・)

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 まとめ


テレサ・テンの作品の売り上げ枚数は、

少なく見積もっても1億枚だそうです。

貫禄の数字ですね!


テレサ・テンが亡くなってから、

そろそろ20年が経とうとしています。

でもまだ彼女の名曲たちは、

日本人はじめアジア人の中で今でも生きています。

テレサ・テンよ永遠に!



それでは最後までありがとうございました。


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